誠に勝手ながら
6月6日を
「コックさんの日」
とさせていただきます。

  


1.大きなコックのおじさん

お絵描き歌で有名な「かわいいコックさん」は、実は「大きなコックのおじさん」だった!
…そんな衝撃的なお手紙を東京都田無市にお住まいのYさん(主婦69歳)から頂きました。 手紙の内容はだいたい以下の通りです。 『私は子供の頃、東京の芝大門に住んでいました。実家は小さな小物雑貨の店を営んでいま したが、兄弟が多く、みんな食べ盛りで、私たちはいつもお腹を空かしていました。その頃、近所に大きなレストランがあり、外国人のコックさんが数人働いておりました。 その中の一人が、お店が暇なときに私たちとよく遊んでくれました。 体がとても大きくて、真っ赤な顔をして、大きな口に大きな目、最初はとても恐かったけれ ど、とてもやさしくて、甘いお菓子や果物などをくれました。 ところが、おじさんはある日突然、店からいなくなってしまいました。あとから聞いた話で は、遠い遠いおじさんの生まれ故郷に帰ったのだそうです。 私たちは胸にポッカリと穴があいたようで、寂しい気持ちでいっぱいになりました。 すぐ上の兄は絵が上手で、おじさんの姿を土の上に描きました。それはとってもよく似てい たので、みんなでまねをして描きはじめました。いつもいつも描いているうちに、描く順序 もだんだんと決まっていき、幼い弟や妹にもわかるように「棒が一本、葉っぱになって、カ エルかな?いやいやアヒルだよ」などと言ってるうちに、コックのおじさんがいつもドゥビ ドゥビとつぶやいていたリズムのようになりました。私たちがいつも唄いながら描いていた ので、学校でも流行りだし、それがどんどん広がっていったようです。しかし、あのおじさんの絵が「かわいいコックさん」の絵描き歌になっていることは、ずい ぶん経ってから知りました。ふと通った公園の片隅で、聞き慣れたなつかしいリズムに振り 向くと、小さな子供たちがコックさんを描いていました。「かわいいコックさん」というに は複雑な思いがしましたが、その姿はまさしくおじさんそのものでした。 なんだか胸が熱くなったのを覚えています。 上の兄たちや弟、妹たちも亡くなり、おじさんとの記憶も私だけのものとなりました。 ただ、こんなこともあったのだよと、知っていただければ幸いです。』私たちは、もう少し詳しいお話をうかがうため Yさんに連絡を取りたかったのですが、手紙の 住所には番地の記載がなく、かないませんでし た。Yさん、もしもこれをお読みでしたら、ご一報ください。…お待ちしています。




2.文化進化論説

I.[約20万年前 南フランス、プロバンスの洞窟]
この図の中央に見える黒い線は、人類によって最初に岩に刻まれた ものであるとの報告がある。確かに真一文字に流れるこのキズは、 何らかの意志のなせる技という気もする。しかし、多くの学者たちは 単なる岩の裂け目であると取り合わない。

II.[約2万年前 ドイツ中部シュバルトバルトの岩壁]
これは明らかに現生人類による葉っぱの絵である。しかし、同時代の ラスコーやアルタミラの洞窟壁画と比べると、あまりにも稚拙である。 おそらくは子供の手によるものと思われる。

III.[ローマ時代(BC3世紀)カルタゴで発掘された柱の装飾文様]
ローマやシラクサでも類似の文様が報告されているが、この完成度の 高さは、まさにハンニバル好みというところだろう。

IV.[ローマ時代(BC1世紀)カエサル軍の旗印]
ガリア、イスパニアと転戦したカエサル軍の士気を鼓舞したと伝えら れる印。ゲルマンの民は、この旗印を見ると戦意を喪失したという。

V.[中世ヨーロッパ 吟遊詩人の詩に謳われた英雄]
中世ヨーロッパの宮廷や街々を放浪したトゥルバドールなどの吟遊詩人は、 恋の詩を最も得意としたが、英雄物語も伝えた。11世紀のフランス、 トゥールーズのフレスコ画に描かれた英雄。

VI.[17世紀 大数学者デカルト、三角定規を導入]
17世紀初頭、若き日のデカルトは、中世以来定着していた英雄モチーフに 三角定規を導入するという画期的変革をもたらした。二等辺三角形を二等分 することにより、図に安定をもたらした。

VII.[18世紀 モーツァルトの即興曲完成]
7歳のモーツァルトが即興で作った曲が、巷に流布し、通 俗化されたものが 「かわいいコックさん」の絵描き歌の元になっている。もちろん、曲と絵の 融合は20世紀初頭まで待たねばならない。

VIII.[19世紀コックさんの絵の発展に初期印象派が関与か?]
19世紀後半、コックさんの絵は、帽子以外について現在のものとほとんど 変わらなくなった。この時期に新たに加わった、いわゆる「アンパン、コッ ペパン」などについては、確証はないが、初期印象派の関与を指摘する意見がある。

IX.[20世紀初頭 パリで完成した「コックさん」]
第一次世界大戦直前のヨーロッパは、不安定な状況からか、不思議な興奮状態に 包まれていた。そんな中、パリで、「コックさん」はモーツァルトの曲とも一体 となり大流行した。しかし、大戦勃発と同時にその熱は幻のように消え失せ、その後 「コックさん」は、ヨーロッパでは二度と復活することはなかった。 そして舞台は日本に移るのである。

X.[20世紀初頭 日本 西洋みやげ「コックさん」]
この頃、洋行帰りの人々が最新の西洋情報として伝えたものの中に「コックさん」 もあった。夜の街でも人気で、いつしか「かわいい」という形容詞がつき、 「かわいいコックさん」と呼ばれるようになった。大人世界の流行は子供世界に もすぐに伝わるのが常で、その過程で日本語の歌詞もでき、多少の盛衰もあったが、 現在に至っている。


江戸の落書き

私が調査いたしましたところ、「かわいいコックさん」の絵の原形 と思われるものが初めて現われますのは、江戸末期の文化・文政の 頃のようです。 それは先だって、大阪の旧家の土蔵の中から発見された、書き損じ て反古にされたものに描かれていた落書きでして、その絵姿は、ど うやら番頭さんのようであります(図1参照)。もともとこの家は、 船場で手広く反物を扱っていた問屋さんで、たくさんの使用人を使 っていたそうです。絵から推測いたしますに、おそらくは幼くして 奉公に上がった小僧さんが、「いつかは自分も番頭さんに…」の願 いを込めて描いたものでしょう。書き損じとはいえ、何事にも節約 を重んじる商家にあって、このような落書きが残っていたのはめず らしいことです。そのこともあるのでしょうが、残念ながらこの 「番頭さん」系の絵で発見されているものはこの一枚のみで、また、 唄いながら描かれたものかについても判っていません。

その後数十年の空白の後、突然明治の中頃になってこの類型の絵が 現われます。それは、旧制高等学校の便所の壁の落書きや、本の見 返しにペンで描かれたもので、図柄は「番頭さん」から大きく様変 わりし、角帽袴姿に高下駄といういでたちになります(図2参照)。 その多くが絵の横に「帝大合格」などと書かれていることから、進 学への思いを込めて書かれたものと思われます。高田馬場の古書店 で見つかった当時の幾何の教科書の絵は、絵自体はつたないもので すが、絵の下に「寮歌の節をもって唄うべし」と書かれているので、 唄いながら描かれていたものと思われますが、持ち主の学校名など が書かれているはずの部分が欠落しているので、どこの寮歌なのか は不明です。 その後、この絵は「カフェの女給さん」「芸者さん」「噺家さん」 などいくつかのバリエーションを示し、細々ではありますが巷に浸 透してゆきます。

それが大きな転換を迎えるのは、大東亜戦争の少 し前のことです。バリエーションの広さは消え、「兵隊さん」一色 となります。暗い時代の象徴です。しかし、この「兵隊さん」の絵 において、現在「アンパンふたつ、マメみっつ、コッペパンふたつ」 と唄われている部分が、「饅頭ふたつ、団子が三個、大福ふたつ」 と表現こそ違いますが唄われ、全体の形も現在のものに近いものと なりました(図3参照)。もっとも歌のほうは、当時を知る人によ りますと、今のものとはメロディが異なり、単調で少々字余りの軍 歌調の歌だったようです。

そして戦後、世の中の落ち着くにつれ「兵隊さん」は姿を消し、平 和な時代にふさわしい「コックさん」の図柄が、どこでということ ではなく、あちこちで花咲くごとく現われだします。その裏には、 戦中戦後の食糧難への辛い記憶を払拭しようという思いが感じ取れ ます。お絵描き歌も、洋楽の影響を受け、明るくかわいらしいもの となっていき、現在に至っています。







4.お母さんと女の子

戦争中の話です。暗い暗い時代の話です。 あるところに小さな女の子がいました。遠い戦地に赴いたお父さんの 帰りを、お母さんと二人で待っていました。 女の子は、絵を描くのがとっても好きでした。お家の前の道ばたに、 お花や蝶々や、お人形さんを描いていました。 でも、その後ろ姿は寂しそうでした。 お母さんは、少しでも女の子の心が明るくなるように、大好きな絵を 使ってお絵描き歌を考えました。 でも、絵も歌も最初から今のようではありませんでした。 「一本棒が葉っぱになって、カエルぴょこぴょこアヒルになって……」 こんな感じで少しずつ少しずつ変わってゆきました。 女の子も、いつも描いているうちに、お手々の6月6日を思いついたり しました。いつの間にか、近所の子供たちともお友達になり、みんなで お絵描き歌を唄いながら楽しく遊びました。……ところが、このときは まだコックさんではなく、前掛けをした板前さんの絵でした。  戦争が終わり、平和が訪れたとき、町にはいろいろなカタカナの言葉 があふれました。そんな中で、「板前さん」も「コックさん」になって いきました。学校給食の「コッペパン」も歌の中に入りました。  お母さんが女の子のために考え、女の子が遊びながら作っていった お絵描き歌が、自由と平和の力で『かわいいコックさん』として生まれ 変わりました。……「棒が一本あったとさ、葉っぱかな? 葉っぱじゃ ないよ、カエルだよ…」……今も、耳をすませば子供たちの声が聞こえ てきそうです。 ただ、女の子がその後どうなったのか、 今も元気でいるのか、誰も知りません。


5.絵を描く北京ダック

昔、こんな話を聞いたことがある。 横浜の中華街のとある北京ダックで有名な店での、ちょっと信じられない本当の話。 終日そこそこの賑わいをみせていたその店の裏手に、北京ダック用のアヒル小屋があった。 薄暗い小屋の中には、大量のエサでまるまると太ったアヒルが身動きできないほど押し込め られ、悲鳴のような声を出し、いけにえの順番を待っていた。 そんなアヒルの中に一羽、他のアヒルと何ら変わるところはないが、奇妙な行動をとるもの がいた。そのアヒルは、なんと壁に絵のようなものを描いているのである。 その絵というのは、頭の上に何かをのせた鳥のようであった(図1参照)。驚いたことに、 それはどうやら自画像のようであった。 …では、頭の上のフワフワしたものはいったい何であろう? 「こりゃあ、俺たちのかぶっている帽子じゃないか?」料理人の一人が言いだした。 言われてみると、それはどうもコックの帽子のようであった。このアヒルはどうやらコック になった自分を描いているようであった。 …「こいつはおもしろい」「すごいアヒルだ」ということで、アヒルは小屋から出され、 店先でその芸を披露することとなった。そしてその噂はたちまち広がり、店は大繁盛になっ たということである。 その話は時を経ずして東京方面 まで伝わっていった。そしていつしか好奇心豊かな子供たち の間にも広がり、「アヒルのコックさん」の絵は瞬く間に全国に広まっていった。 その過程で(これはよくある話だが)「アヒル」であるということが忘れ去られ、頭の帽子の 影響と思われるが、いつしか立派なコックさんの全体像となっていた。 絵描き歌のほうであるが、これは伝わってゆくときに、「まずは口」「その次おめめ」などと 順を追って子供から子供へ教えられていったものが、リズミカルなものになり、いつしかその 『マニュアル』にメロディがついていったものと思われる。 これも、正確に伝えたいという一途な幼心のなせるわざであろう。……ところで横浜の中華街の「お絵描き北京ダック」の方はというと、そのアヒル自身はとう に亡くなっているが、現在子孫である25代目が、店先のガラスケースの中で健気に絵筆を 振るっているということである。「芸は身を助く」…そんな言葉が浮かんだ。

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